05『痴人の愛』(谷崎潤一郎・新潮文庫)

 

痴人の愛 (新潮文庫)

痴人の愛 (新潮文庫)

 

 

この作品はと言えば、「エロチシズム」や「マゾヒズム」を扱った文学作品として知られているわけですが、一方私は、山田詠美先生の小説『賢者の愛』を基にしてWOWOWでドラマ化されたものを見て、それが谷崎潤一郎先生の作品をオマージュしたものなのだと知って、そういうルートでこの作品に出会いました。

15歳の少女を貰ってきて、自分好みに育てる。多くの場所で指摘されております通り、そこには『源氏物語』にも見られますような思想が垣間見えるわけです。その少女は名前をナオミと言うわけですが、この2人の間には13の歳の差があります。この辺りが個人的には肝なのだと思いますけれども、特にこの小説は最後、このようにして終るのです。

ナオミは今年で二十三で私は三十六になります。

一通り物語を読んできて、最後この一行に出会うと、譲治すなわち「私」に感情移入すると言うより、なぜだかどこからともなく屈辱感のようなものがやって来ると思うのです。

ナオミがいかに魔性であるかということについてですが、それはおそらく議論が必要なところだろうと思います。例えばナオミは「私」を騙しているかのように描かれますが、それは当然これは「私」が回顧するという形の小説なわけですから、本当にナオミにその意図があったかについては分かりません。或いは、ナオミが意図をもって「私」をたぶらかしているにしたところで、ではそれがいつから始まったのか。ウェイトレスの見習いのようなことをやっているうちからそうだったのか、あるいは文化住宅に住み始めるうちにそうなったのか、かなり疑問が残ります。

と言うよりそれに関する記述は無いのですから、そういうことは個々の妄想で補うのがよろしい。ここではあえて「私」という人間について考えようと思います。

当然ながら、「私」の背景には〝処女信仰〟のようなものがあるであろうと言うところは想像がつきます。当初まだ若い少女を貰い受けたわけですし、「自分好みに仕立ててやろう」などという考えにそれが見られます。当初はそうであったかもしれませんが、その後は抽象的な意味での〝処女信仰〟へと推移します。〝純潔性信仰〟と言っても良いかもしれませんが、おそらくこちらは現代でも多くの人が抱く考え方で、恋人の他に異性はいない方が良い、姦通などもってのほか、そういう考え方です。

「私」がナオミと触れ合う根幹には、この〝純潔性信仰〟がある。ナオミそのものが純潔であるから信仰すると言うより、ナオミには純潔であってほしい、という形で無力にもこれは転倒した価値観になってしまうわけですが、その辺りに第一の「私」の敗北が見て取れなくもありません。

〝処女信仰〟と言う話の延長で言えば、〝西洋人信仰〟と言うのもあるだろうと考えて良いと思います。住宅に、当時は珍しかったであろう文化住宅を選んだこと。ナオミに英語とピアノをやらせたこと。そのうえダンスをやらせたこと。「私」の西洋人への憧れは随所に見られます。憧れ、というのとは少し違うかもしれません。憧れと言うと、なんだか西洋志向のヤツという感じがしてきますけれども、もっと盲目的な「西洋的であることは良いことだ」というような価値尺度を持っていることが分かります。これには動機がいくらかあるのかもしれませんが、大抵そういうものに意味を見出すのは無価値です。

文化住宅、という話が度々出ますけれど、これも面白い。と言うのも、「私」は何度もナオミに愛想を尽きかける場面があります。例えばダンスに行って、その帰り電車でナオミを見ると、全く魅力的には感じられない。ただし家に帰ると、たちまちその魅力が取り戻される。不思議ではありますが、単純明快に、この家の中ではナオミは「私」のものであって、「私」にとってナオミが絶対になる、というように考えて良いと思うのです。

だからこそ、この家に他の人が来ると違和感を覚える。当然、鎌倉の方でのナオミの浮気が(〝浮気〟というのが陳腐な言葉に聞こえるけれど)発覚した際は怒るわけですが、それはむしろ前述の〝純潔性信仰〟に起因するものと考えるべきで、その後ナオミに屈するのはいつもこの家ということになり、最終的に敗北を認めたのも、やはりナオミが家から出た時なのです。

さて、先ほど年齢の話をしました。13の年齢の差があると。しかし最後まで読むと、果たしてそれにどれだけの意味があるのか。途中「私」は「ナオミ」と呼び捨てにしたところを「ナオミさん」と最後には呼ばなくてはならなくなる。家では英語をぴしゃりと教えていた「私」であるが、ナオミに出て行かれるのを怖がってそれもやめ、ナオミの方が却って英語が上手くなる。勝負事にしても、負けてやっているつもりの「私」であったが、いつのまにかナオミに本当に勝てなくなる。

これはある種の逆転と言って良いのでしょうし、ナオミと「私」の立場の逆転が、こうした部分に現れているわけですが、個人的にはそこにある種の〝退行〟のようなものを感じざるを得ません。ナオミがいなくなってからというもの「私」は子供のようにあたふたしながらかつての恋敵を頼って、その前で涙を流し、挙句やはり諦めきれずに服従する。退行というのは子供のように戻ることですから、もっと残酷な言い方をすれば、動物まで堕ちたと言っても良いでしょう。

作中「私」は何度もナオミが〝堕落〟したと言いながら、「私」自身もまたさらにその下僕的な位置まで堕落し、最後には馬乗りになられ、敗北した。当然そこが、この作品のマゾヒズムの真髄なわけです。

マゾヒズムというのを今風に解釈すると、ムチで打たれて気持ちいいとか、もっと踏みつけられたいだとか、そういう肉体的なものを思い浮かべますが、「私」はどうでしょう。キスすら出来ないというあたりに、ある種の肉体的マゾヒズムを感じるかもしれませんが、おそらくその中枢にあるのは精神的マゾヒズム。というより、彼にはもう選択肢が無い。〝屈する〟というより他にない。

その堕落を描いた作品、それはある種ナオミの堕落を描いたように見えるわけですが、実際には「私」の堕落を描いた作品として、非常に面白かったように思います。

 

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