マイノリティからの脱却

近頃、マイノリティへも目が向けられるようになっていました。何でもかんでも近現代の変化をネットの発達と結び付ける性向は好きではないのですが、これに関してはネットの影響を排除できないものと思います。

障害者であるとか、LGBTであるとか、そういう人々に対する意識は相当改善されているのだろうと思います。

障害者がTwitterで何か自分の経験を語ったりすると、それについて一応の知識がある人が、「そうそう──」と補足してそれを拡散していきます。LGBTなんかは割と本人たちが発言力を持つようになったマイノリティかもしれないですが、そうはいかない場合も多く、マイノリティに近い人々がその状況をレポートする形でネットの中で共感を持って広がっていきます。

特にこの記事ではLGBTについて取り上げたいと思います。余裕があったら障碍者についても書ければよいですが。

LGBTは性的マイノリティとして扱われてきましたが、誰もそのことに違和感は無いのでしょうか。

Twitterなどを通して行われてきた意識改革というのはそう何種類もありません。「身体的性別(セックス)と精神的性別(ジェンダー)が一致するとは限らない」「異性愛がフォーマットであるというのは誤解だ」

確かにそうなのだろうと思います。前者の説明は、全てのゲイやレズビアン性同一性障害であるかのような誤解を招きかねませんから、その説明はどうかとも思いますが間違いなくその通りで、セックスが尊重されるのであれば、男性は女性を、女性は男性を求めるはずです。それが生物学的摂理であることは間違いないのですから。

しかし実際にはそうではない。人間にはジェンダーと言うものがあって、これは必ずしもセックスと一致しない。東南アジアにはこのジェンダーというものを、恋愛対象の性別を基に何種類にも分けている場合があるようですが、確かにその通りなのだろうと思います。ジェンダーというのは必ずしも男性性と女性性に二分出来るものではない。個人的には二分するには人間は賢くなりすぎたということだと思うのですが、別に科学的根拠があるわけではありません。

LGBTをマイノリティと断ずることについての違和感は、この細分化されるジェンダーにもあります。だってこのジェンダーで分けたら、過半数を取るものなんてあるはずがないのですから。異性愛両性愛・同性愛、そういうなんだか不思議な分類から離脱して、細分化されるジェンダーという面で考えれば、マジョリティなんてものは存在するはずがなく、マイノリティばかり。

あれ、それってマイノリティと言うんでしょうか。少なくとも現在、いわゆるLGBTと分類される人々が占める割合は、AB型の人、あるいは左利きの人と同じだと言うことです。では考えてみると、「AB型ってマイノリティ?」「左利きってマイノリティ?」ということ。

AB型がマイノリティなのだとしたら、A型だってB型だってO型だってマイノリティになってしまいます。Rh-だとか、なんだか面倒くさい概念を導入すればもっと少数派を見出せそうですが、少なくともAB型はマイノリティではないでしょう。

左利きはマイノリティかもしれませんが、LGBTと同列に扱われるマイノリティかは疑問です。「僕、左利きなんだ」と言われても、「そうなんだ」と応答できるし、何なら「両利きじゃないの?」みたいな会話もできる。ただ、「僕、ゲイなんだ」と言われたらどうか。そう言われた人物の応答は2種類です。古臭い答え方、同性愛なる者に対して拒否反応を示すか、あたかも理解ありそうな答え方、教科書通りに寛容に受け入れるか。

この構図がとても嫌いです。「寛容」であるのは常に包み込む者です。「受け入れる」のは常に強い者です。LGBTをマイノリティという〝庇護されるべき存在〟に追いやり、それを〝庇護してやる存在〟として自分を規定している。

個人的には日本テレビ系列の24時間テレビを例に取りたい。と言うのも、毎年放送されるごとに「偽善的だ」みたいな批判があります。私はこの番組を「偽善」とは思わない。これはもうずっと人間の社会にあって本来的な構造だろうと思います。

24時間テレビで例えば、目の見えない少女が海を泳ぐ。「なぜ?」答えられません。その少女は水泳をずっとやっていたそうなのですが、それが津軽海峡を横断することとは繋がりません。

例えば、耳の聞こえない子供たちが、目の見えない子供たちが、ヨサコイを踊る。「なぜ?」答えられません。しかし子供たちは涙を流しながらも懸命に努力する。日本国民の大多数は、ヨサコイなんて踊ったことないまま死んでいくはずだろうに。

そこにはある構造があるのです。常に24時間テレビの障害者のチャレンジには、健常者(とされる人)がそれをサポートする上位者として規定されるという潜在的構造があるのです。

特徴的なのは、そうしたチャレンジを見て涙を流す人々です。涙を流すことができるのは、そのチャレンジを「チャレンジ」とみなすことが出来る人、やはり上位に規定される人です。

LGBTがマイノリティに押し込められ続ける限り、LGBT異性愛者から「理解される」存在にしかなり得ず、やはり異性愛者が上位者に規定されます。これは意識的なものではなく、構造的なものだと思われます。

全ての人は自らを上位に規定したがるものです。別に最上位である必要はありませんが、最下位であってはならない。下位あるいは最下位に自らが置かれると不安でしかなくなります。面倒くさいのは、これが必ずしもピラミッド状に構築される上下関係ではないこと。この上位下位という関係は、数量の大小によっても規定されます。

かなり無理がある三段論法のように思われるかもしれませんが、「上位」=「自らを安心させるもの」、「自らを安心させるもの」=「多数派」というわけで「上位」=「多数派」という構造もあり得るのです。

「上位」という存在に自らを置かなくては、自らのアイデンティティが揺らぎます。例えば、キリスト教国でLGBTを認めると、敬虔なキリスト教徒は、自らが学んできた聖書の内容との矛盾が発生してしまう。

日本は宗教的要因ではないですが、自らが確固たる多数派であるために、自らを「上位」に規定し続けなければならない、という具合でしょうか。あるいは「日本教」なる宗教を規定してみても良いかもしれませんが。

多数派が上位を確保し続けるための手段の一つが「庇護を与え続ける」というものです。これは別に、少数民族を保護してやる主要な民族、みたいな構造にも当てはまるでしょうが、その中に本当の意味の同等さを規定づけるのは簡単ではありません。

何らかの形で庇護を与えなくては数的少数が弾圧されるという話も確かにそうです。これが難しいところ。

世界は置いておいて少なくとも現代日本での差別や偏見の多くは〈無知〉──〈よく分からない〉というところに端を発するものです。だからこそ自分を多数の上位者の中に安定させようとしてしまう。

これは空想上の理念であることは承知で言いますが、そういうことを乗り越えるにはたった一つの方法しかありません。〈忘却〉です。もうその多数少数、上位下位の構造まるごと〈忘れること〉より他に方法がないのです。これは長期的には可能なことなのかもしれません。例えば北海道の大部分にはもう部落差別なんて無い。それはなぜかと言うと、そんなものに触れる機会が無いからです。これは〈忘却〉に成功した例と言えるかもしれません。

マイノリティから脱却しなくては、マイノリティがマイノリティとして権利を獲得することはできないのです。とても言語を弄するような言い方をしてしまいました。要するに、マイノリティはそれを〈忘却〉された先で多くのうちの個人に復帰しなくてはならない。そのためには「無知」から脱却すると共に〈忘却〉される必要がある。大変なことですが、もうこれをするしかないのです。

 

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