01『よるのふくらみ』(窪美澄・新潮文庫)

よるのふくらみ (新潮文庫)

よるのふくらみ (新潮文庫)

 

窪美澄先生の作品を拝読するのはこれで2度目でした。1度目は映画化もされた『ふがいない僕は空を見た』でしたが、その際の鮮烈な印象が今でも記憶に残っています。

あの作品で自分が驚いたのは、ものすごく生々しいものであるはずなのに、それが日常の中に溶け込んでいるということでした。文学と言うのは得てして性的なものを描きたくなるものですが、そうなるとそれはそれで作品の中に「官能的なパート」が出来て、なんだかそこだけ異質な雰囲気を持ってしまうものだと思うのですが、『ふがいない僕は空を見た』ではそうではなかった。男子学生が高校へ通う、主婦が不妊治療をする、それを同じ空間の中に2人の関係性があって、それは別に特殊な世界観の中にはない。

作家になったことはないですから分かりませんが、作家はそういう部分を書くときに一応気を入れなおすのかもしれません。あるいは誤解を招かないように、もしくは不必要に官能的に傾倒しすぎないように気を付けているのかもしれません。その意識は何となくわかる気がします。 窪美澄先生の魅力は、そういう気合の入った風がない──これは気が抜けた文章であることを意味しませんけれど、この人の書く官能的なシーンというのは、いつも必ず他の部分の地続きにあるという意味で魅力的だと思っていたのです。

さてこの作品も、そうした意味では期待によく応えてくれました。圭祐と裕太という兄弟、圭祐と同棲する2人の幼なじみ・みひろ。この構図というのはよくあると思います。詳しくはないけれど、漫画『タッチ』に共通するものを見出すことも出来るかもしれませんし、個人的には十年以上前の朝ドラですが『ちゅらさん』なんかが思い出されます。この2作品では、兄弟の片方が夭折することでもう片方の恋愛にそのことが大きな影を落とすということなのですが、これは大変ドラマチックです。というか、もう生き残った2人が結ばれることは分かっていて、あとはその2人が心の整理をつけるのを待つだけです。

『よるのふくらみ』では圭祐も裕太も生きています。この兄弟というのが難しい。自分にも弟がいるので男兄弟ということになるんですが、絶妙な間合いというものがあって、家族だから仲良しというわけにも行かない気がする。負けたくないという本質的な感情もある気がするのですが、その一方で戦っている土俵が違うと自覚していたりもする。「お兄ちゃんなんだから」なんて自分もよく言われましたけれど、兄弟と括っても「兄」という位置づけと「弟」という位置づけではまた社会の中での立ち位置が違う。

みひろはその兄弟の兄の方・圭祐とのセックスレスに悩みます。みひろは生理の周期と連動して〝発情〟してしまうのですが、圭祐はそれに答えない──答えられないというべきでしょうか。薬を使わないと勃起できないということらしいですから、勃起不全と捉えて良いと思います。

その欲求不満からみひろは裕太と一度だけセックスをしてしまう。しかしこれ自体は別に大きな変化をもたらすものではなくて、後々じわじわ効いてくる。ボディブローのように。

本当は、恋人がいながらその恋人の弟とセックスしたみひろを不純な女と断罪してしまうのはものすごく簡単なのですが、この本を読んだ上でそんなこと出来る人間はいないでしょう。なんだかとてつもなく仕方ないというような気がしてきます。こうなるより他になかったという気がしてきます。

このみひろという女性が子供と接する仕事というのも因縁めいたものを感じます。みひろは間違いなく「オンナ」なわけですが、子供は性別というものをあまり感じさせない。陰茎があるかないかで身体的に見分けることはできるでしょうが、見た目が大きく変わるのは一次性徴のころでそれが二次性徴で加速すると個人的にはとらえていますが、この子供というのは「オンナ」とは交わらない存在。いやらしい言葉をあえてここで使うと、この子供は「純潔」という感じがある。この大きなギャップが魅力的です。

子供と言うのは作品の要所要所で出てきますし、またこの3人がまぎれもなく子供であったときも出てきます。男・女・子供みたいな三角関係でこの作品を捉えなおすと面白いかもしれない。

解説は尾崎世界観さんでしたが、その言葉のチョイスはやはりさすがと言うか、この小説を「生理小説」と書いていらっしゃって、いや確かに窪美澄先生の小説にカテゴリーを与えるならまさにそうだろうと思いました。もちろん女性のバイオリズムの生理ではなく、人間のあるままの姿を切り取っている。

もしかするとこの本を読んで、「人間の汚い部分も描いている」というような感想を抱く方もいるのではないかと思うのですが、あえて言うと、そうではないと思います。この作品を読んだ自分は今、そういう感想に対して素朴に思うのです。「〈汚い〉って誰が決めるの?」

そのあたりが生理小説ということだと思うんですが、人間は小便もするし大便もする。それは不衛生かもしれないけれど、汚らわしい行為ではない。だってそれをしなくちゃ生きていけないんだもの。この例えは不適当だと思いますが、そういう風に生きている中での有り様を描く。え、それに〈汚い〉ってあるの?

この作品で感じたのは〈何と何が同じなのか〉そして〈何と何が違うのか〉ということ。この人物とこの人物はここが似ているけれどここが違う、そういうのがたくさん出てくる。金子みすゞ先生は「みんな違ってみんないい」と言ったそうですが、実際にはそれってとても難しいことだと思いませんか。みんなどこか同じになってしまう、違いを見出す方が難しい時だってある。

そういう部分にこの作品はフォーカスしているように思うのです。

私は「汚い部分も真正面から描いた」みたいな評価をこの作品に与えたくはないので誤解を招きたくないのですが、この作品を形容すると〝赤黒くねっとりしたものをそのまま包み込んだよう〟という感じだと思います。

〝赤黒くねっとりしたもの〟がなんだか汚い描写になってしまうけれど、そうではないのです。この作品には間違いなく血が通っている。しかしそれは生命力を感じさせる赤々とした動脈血なんかではなくて、静脈血。なんなら空気に触れて凝固が始まっているような。そういうものがすっぽりと入っている。そんな風に感じるのです。

 

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