野党の役割

最近、菅義偉官房長官の記者会見において、野党議員ばりの舌鋒鋭い質問を飛ばすとして東京新聞の望月衣塑子記者が話題になっています。

しかし本来そこから感じられるべきことは、「この記者は勇敢で素晴らしい」ということでも、「女性なのに頑張っている」ということでもないのではないでしょうか。つまり、「野党議員のような」質問を飛ばす記者が取り上げられる時、当の「野党議員」は何をしているのか、ということです。

「安部一強」と言われて久しいですが、それ以前から振り返ります。

主に日本の政治というのは、所謂55年体制が構築された後、自民党が政権を取っているが、時々国民がそれに辟易して野党に政権を渡す、ということを繰り返してきました。実際には、「繰り返す」と言えるほどの回数を繰り返されたわけではないのですが。

そこにあった構造は、与党として君臨し続ける自民党に対する単純な「飽き」かもしれませんし、自民党内の一種の歪みのようなものに対する反発かも知れません。とりあえず、「自民党ではいけない」という考えが時々あって、その都度、「自民党主流派らしくない」人が注目を浴びたり、「自民党ではない」人が取り上げられたりするわけです。

しかしそれが長続きはしない。これは一種の矛盾した構造ですが、自民党があまりに長く政権を取りすぎたがために、自民党以外の政党が政権を握っても上手くできない。ノウハウがないというのもありますし、行政の側に立つような育ち方をした議員が野党にはいないということも問題なのでしょう。

直近で言えば民主党政権。直前の自民党政権は、ほとんど1年に1人というような感じで総理を交代させていたわけですが、その流れは民主党政権でも続きました。事業仕分けなど、一種のパフォーマンス的に見栄えのすることはやったけれども、例えばそういうことのしわ寄せが今になって露呈している。彼らには行政担当能力が無かったか、かなり低かったということでしょう。

その反動から、「やっぱり自民党」という流れで安倍自民党に政権が回って来た上、基本的には経済政策の成功で維持されてきたと考えるべきでしょう。

そんな中野党の議員は、居場所を失ってしまった、という感が否めません。民主党の記憶が無くならない限り、民主党民進党と名前を変えたとしても、国民は野党を与党としては選ばないでしょう。つまり彼らには、国会の議決に参与することすら出来ないという葛藤がやって来る。

好例が、「強行採決」とのレッテル貼りでしょう。これは言わば、「私たちは反対した!」という野党のアピールであって、彼らの劣等感の裏付けとも言えます。

それと裏腹にあるのが、野党と、市民団体の連携です。SEALDsなどがその例ですが、彼らは国会前でデモをする、国会議員は採決の合間にそこにやってきて、演説をする。彼らが同じ場所で並ぶ。確かに一見すると「国民は怒っている」、そして野党議員は「それを代弁している」というような構図が見えるわけですが、静観していると、そうではないのが分かります。

国会議員とは、本来権力者です。日本国内に唯一の立法機関に国民の代表として送り込まれた権力者であるべきです。裏を返すと、彼らはあらゆることを「出来る」人。実質的な能力を持たず、国会前でデモをするしかない人々とは決定的に違うはずです。でも野党議員は、そういう市民と同じところまで自らの地位を貶めた。

メディアとの関係で言えば、野党議員の地位低下は明白です。野党議員が、週刊誌のコピーを資料に政府に質問する。「新聞にこんなことが書いてあります」と質問する。全く馬鹿馬鹿しい話ですが、政治家の本職であるはずの「政治」「政策」という話を離れて、メディアに使われる存在に落ちぶれてしまった。彼らに与えられている政府への質問の時間。権力を背景にしたその時間を、メディアの使いっぱしりとして浪費しているのです。議員の記者化、と言っても差し支えないかもしれません。

一方で、記者の方はと言えば、自分のやっていることが議員に影響を与えると味を占めた。そうなると記者の議員化が止まりません。自らを「国民の代表」などと勘違いして、議員のような質問を飛ばす。本来メディアがなすべきことは、真実を追及することであって、そのつまるところの審議判定や価値判断は国民自身が行うべきことなのですが、それすらも「代わりにやってあげる」というのが今のメディア。もちろんそうしたメディアも普通の一般企業と変わらないのですから、その構造は恐ろしいものです。

ではその元凶はどこにあるのか、と言えば、それは議員にあると言って間違いないでしょう。「どうせ政権は取れない」という諦めのようなものが、野党議員自身から「議員の特殊な地位」を奪った。政治をやるべき政治家が、いつの間にかスキャンダル追及の記者のようなことをやっている。それが全ての歪みの元凶です。

05『痴人の愛』(谷崎潤一郎・新潮文庫)

 

痴人の愛 (新潮文庫)

痴人の愛 (新潮文庫)

 

 

この作品はと言えば、「エロチシズム」や「マゾヒズム」を扱った文学作品として知られているわけですが、一方私は、山田詠美先生の小説『賢者の愛』を基にしてWOWOWでドラマ化されたものを見て、それが谷崎潤一郎先生の作品をオマージュしたものなのだと知って、そういうルートでこの作品に出会いました。

15歳の少女を貰ってきて、自分好みに育てる。多くの場所で指摘されております通り、そこには『源氏物語』にも見られますような思想が垣間見えるわけです。その少女は名前をナオミと言うわけですが、この2人の間には13の歳の差があります。この辺りが個人的には肝なのだと思いますけれども、特にこの小説は最後、このようにして終るのです。

ナオミは今年で二十三で私は三十六になります。

一通り物語を読んできて、最後この一行に出会うと、譲治すなわち「私」に感情移入すると言うより、なぜだかどこからともなく屈辱感のようなものがやって来ると思うのです。

ナオミがいかに魔性であるかということについてですが、それはおそらく議論が必要なところだろうと思います。例えばナオミは「私」を騙しているかのように描かれますが、それは当然これは「私」が回顧するという形の小説なわけですから、本当にナオミにその意図があったかについては分かりません。或いは、ナオミが意図をもって「私」をたぶらかしているにしたところで、ではそれがいつから始まったのか。ウェイトレスの見習いのようなことをやっているうちからそうだったのか、あるいは文化住宅に住み始めるうちにそうなったのか、かなり疑問が残ります。

と言うよりそれに関する記述は無いのですから、そういうことは個々の妄想で補うのがよろしい。ここではあえて「私」という人間について考えようと思います。

当然ながら、「私」の背景には〝処女信仰〟のようなものがあるであろうと言うところは想像がつきます。当初まだ若い少女を貰い受けたわけですし、「自分好みに仕立ててやろう」などという考えにそれが見られます。当初はそうであったかもしれませんが、その後は抽象的な意味での〝処女信仰〟へと推移します。〝純潔性信仰〟と言っても良いかもしれませんが、おそらくこちらは現代でも多くの人が抱く考え方で、恋人の他に異性はいない方が良い、姦通などもってのほか、そういう考え方です。

「私」がナオミと触れ合う根幹には、この〝純潔性信仰〟がある。ナオミそのものが純潔であるから信仰すると言うより、ナオミには純潔であってほしい、という形で無力にもこれは転倒した価値観になってしまうわけですが、その辺りに第一の「私」の敗北が見て取れなくもありません。

〝処女信仰〟と言う話の延長で言えば、〝西洋人信仰〟と言うのもあるだろうと考えて良いと思います。住宅に、当時は珍しかったであろう文化住宅を選んだこと。ナオミに英語とピアノをやらせたこと。そのうえダンスをやらせたこと。「私」の西洋人への憧れは随所に見られます。憧れ、というのとは少し違うかもしれません。憧れと言うと、なんだか西洋志向のヤツという感じがしてきますけれども、もっと盲目的な「西洋的であることは良いことだ」というような価値尺度を持っていることが分かります。これには動機がいくらかあるのかもしれませんが、大抵そういうものに意味を見出すのは無価値です。

文化住宅、という話が度々出ますけれど、これも面白い。と言うのも、「私」は何度もナオミに愛想を尽きかける場面があります。例えばダンスに行って、その帰り電車でナオミを見ると、全く魅力的には感じられない。ただし家に帰ると、たちまちその魅力が取り戻される。不思議ではありますが、単純明快に、この家の中ではナオミは「私」のものであって、「私」にとってナオミが絶対になる、というように考えて良いと思うのです。

だからこそ、この家に他の人が来ると違和感を覚える。当然、鎌倉の方でのナオミの浮気が(〝浮気〟というのが陳腐な言葉に聞こえるけれど)発覚した際は怒るわけですが、それはむしろ前述の〝純潔性信仰〟に起因するものと考えるべきで、その後ナオミに屈するのはいつもこの家ということになり、最終的に敗北を認めたのも、やはりナオミが家から出た時なのです。

さて、先ほど年齢の話をしました。13の年齢の差があると。しかし最後まで読むと、果たしてそれにどれだけの意味があるのか。途中「私」は「ナオミ」と呼び捨てにしたところを「ナオミさん」と最後には呼ばなくてはならなくなる。家では英語をぴしゃりと教えていた「私」であるが、ナオミに出て行かれるのを怖がってそれもやめ、ナオミの方が却って英語が上手くなる。勝負事にしても、負けてやっているつもりの「私」であったが、いつのまにかナオミに本当に勝てなくなる。

これはある種の逆転と言って良いのでしょうし、ナオミと「私」の立場の逆転が、こうした部分に現れているわけですが、個人的にはそこにある種の〝退行〟のようなものを感じざるを得ません。ナオミがいなくなってからというもの「私」は子供のようにあたふたしながらかつての恋敵を頼って、その前で涙を流し、挙句やはり諦めきれずに服従する。退行というのは子供のように戻ることですから、もっと残酷な言い方をすれば、動物まで堕ちたと言っても良いでしょう。

作中「私」は何度もナオミが〝堕落〟したと言いながら、「私」自身もまたさらにその下僕的な位置まで堕落し、最後には馬乗りになられ、敗北した。当然そこが、この作品のマゾヒズムの真髄なわけです。

マゾヒズムというのを今風に解釈すると、ムチで打たれて気持ちいいとか、もっと踏みつけられたいだとか、そういう肉体的なものを思い浮かべますが、「私」はどうでしょう。キスすら出来ないというあたりに、ある種の肉体的マゾヒズムを感じるかもしれませんが、おそらくその中枢にあるのは精神的マゾヒズム。というより、彼にはもう選択肢が無い。〝屈する〟というより他にない。

その堕落を描いた作品、それはある種ナオミの堕落を描いたように見えるわけですが、実際には「私」の堕落を描いた作品として、非常に面白かったように思います。

 

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04『陽気なギャングが地球を回す』

陽気なギャングが地球を回す (祥伝社文庫)

陽気なギャングが地球を回す (祥伝社文庫)

 

伊坂幸太郎、ここに極まれり。とまで言うつもりはありません。もうある種、伊坂幸太郎先生の作品は形式美・様式美にまで達していると思うのです。それは内実を伴っていないという意味では無くて(むしろ、形式を踏襲しつつ毎回面白いのは驚嘆すべきところですが)、何度何を読んでも爽快。

例えば、「トムとジェリー」というアニメを見る人は、もう大体が、どうせトムとジェリーが喧嘩することを知っている。けれど見続けるのは、それ形式を踏襲しつつも、いつも面白いから。「ドラえもん」でのび太はいつもドラえもんに助けを求める。その構造は変わらなくても、そこでドラえもんがどんな道具を持ち出すかが楽しくてたまらない。

道具、と言うのは言葉のチョイスになるんだろうか。Twitterなんかではたまに、色々な文章を個性的な文章を書く作家調に表現してみるというのが流行ります。取り上げられやすいのは村上春樹先生。確かに翻訳調で、確固としたユニークな文体を持っていらっしゃるかもしれない。最近はそこに伊坂幸太郎先生の名前を見ることも多くなりました。独特のテンポを持った小説をお書きになると思います。

最初に割り算の話が出てきます。0で割ってはいけない、という話。「答えは無限大だ」だとか「厳密には解無しだ」だとか言いますが、この本での解釈は面白い。「ギャングが分け前を分けられないからダメ」という。もちろんこれはとんでもない話で、それを本当だとすると小数や分数を使った割り算が出来なくなってしまうわけですが、面白い考え方ですね。

話を続ける。「とにかくだ、せっかく盗んだ金を一人も手にしないなんてことが起きると世の中はくるってしまうってわけだ。2=1などという、ありえない世界がやってくるんだ。この世の終わりだな」

これは冒頭部分、慎一に割り算を教える響野のセリフ。中学・高校数学では、文字を割る数に割り算をする際には、その文字が0では無いことを示す必要があるのですが、この直前ではそれを忘れて、2=1という計算式が成り立ってしまいました。世の中が狂ってしまったわけです。

とことんこの通り、と言うか、この部分にこの1冊は凝縮されていると言っても良い。

銀行強盗4人組は、銀行強盗をする。けれど、その金を手にすることが出来ない。そこから物語が歪みだす。

しかし全く、この4人組しかり、あるいは地道や神崎しかり、その纏っているオーラには独特のものがある。これは『オーデュボンの祈り』でも同様だったが、描かれる世界はリアルなようで、リアルではない。そこに生きる人物もまた、本当にいそうで、しかし実際には絶対にいないという確信がある。それこそが伊坂幸太郎先生の魅力だと思ういます。

果たしてそこから一体どれだけの寓意を拾い上げれば良いのか、ただし優れた文学と言うものは作者の手を離れ多くの意味を見出されるものですから、大変悩ましいところです。

成瀬の息子のタダシ。彼は自閉症で、成瀬と別れた妻と新たな父親と共に暮らしているわけですが、彼のセリフは、まるで未来を予測しているようだ。『オーデュボンの祈り』に登場するカカシに共通点を見出すことが出来るかもしれない。伊坂幸太郎先生は、そうして未来を知っている存在を信じているのかもしれないし、運命論者なのかもしれない。

主人公たちは銀行強盗をする。『オーデュボンの祈り』で主人公はコンビニ強盗に失敗しており、『ラッシュライフ』ではコンビニ強盗に成功したという。伊坂幸太郎先生は強盗を描くのが好きなのかもしれない。

伊坂幸太郎先生の作品を読んでいて面白いのは、ワクワクするところ。誰かが死に、その犯人を見つけ出す形のミステリーで無かったとしても、騙されまいとして先を読む。読者として、精一杯作者に挑む。けれどもその結果は大抵敗北に終わります。それがまた爽快。負け心地が良い。

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国会議員の二重国籍、何が問題か。

民進党内部からの動きもあり、民進党蓮舫代表が戸籍謄本を公開する方針であると言いました。主に保守系の(あるいは所謂「ネトウヨ」の)長らく主張して来たことです。

一方、それに対して左派系の人々からは「そんな必要はない」との主張があります。その理由というのは、「人種差別に繋がる」であるとか「ダブルルーツの人々への偏見に繋がる」というものらしいのですが、しかしこれは全く筋違いの話です。

 

二重国籍は何が問題か

二重国籍について、何が問題なのか、という意見もあるでしょう。もちろん市井には二重国籍の人など山ほどいるでしょうし、その全ての人に非難が向けられているわけではありません。

今回の蓮舫代表の二重国籍問題の根幹には、二重国籍でありながら「国会議員になってしまった」という部分と、更に加えて「野党第一党の党首になってしまった」という部分があるのです。

前者、「国会議員になってしまった」という部分に関しては、二重国籍はグレーと言わざるを得ないでしょう。日本国籍を持っている時点で要件を満たすと考えることもできます。問題は、それを隠した疑いがあるということです。蓮舫代表がかつてキャスター時代に「在日中国人として」と言うようなことを幾度となく発言していたという記録も残っており、本人はそれが誤解だったと言っているようですが、その説明で納得できるかと言えば疑問です。森友・加計問題について、「説明がなされていない」といつまで経っても繰り返す一方、こちらについては「十分に説明を尽くした」というのは通じる話ではありません。

後者、「野党第一党の党首になってしまった」というのは問題です。多くの民進党議員が「二大政党制を担う政党」を目指すと言って憚らないのですが、そうなると、蓮舫代表は総理の座を狙うということになります。総理大臣は国防の最高指揮官でもありますから、その時二重国籍の総理大臣が重大な決断を出来るのかどうか、疑念が残ります。

 

「戸籍謄本開示」は解決になるか

以上のことより二重国籍が問題であると思われるわけですが、果たして「戸籍謄本の開示」によってそれが解決するかは微妙です。と言いつつ、彼女が既に二重国籍の状態を脱していることを示すことは大前提に違いありません。

しかしながら、それによって全てが解決されるわけではありません。大きな疑惑が1つ残ります。「意図的に二重国籍であることを隠していたのではないか」という疑惑です。これには「戸籍謄本の開示」はさして役に立ちません。

 

「差別」に繋がるか

「人種差別に繋がる」という話は、全くの筋違いです。以上の問題は、彼女が二重国籍であることを(意図的かは抜きにして)隠したまま国会議員になってしまったというところに端を発する話で、別に市井の外国人などへの差別意識に繋がるものではありません。

この件は、憲法の解釈で裁判所が国政への参政権は認められないと判断しているとされています。二重国籍がその外国人に単純に当てはまるものではないでしょうが、二重国籍というグレーゾーンについてですから、則って厳粛に取り扱われるべきです。

「ダブルルーツへの偏見に繋がる」というのも理解できない話ではありませんが、果たしてそうでしょうか。ダブルルーツの人間であることと二重国籍であることは、ある程度異なっていると考えるべきで、今回問題にされているのはあくまで後者です。

 

以上のことより、戸籍謄本の開示は、行われるべき最小限の措置だと考えます。一方、それが全てではなく、あくまで疑惑は残ります。そのことは忘れられるべきではありません。

 

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03『オーデュボンの祈り』(伊坂幸太郎・新潮文庫)

 

オーデュボンの祈り (新潮文庫)

オーデュボンの祈り (新潮文庫)

 

 伊坂幸太郎先生の作品は『ラッシュライフ』と『ゴールデンスランバー』を読んだことがありました。どちらもとても面白かった。緻密に編み上げられる世界、それが緩やかに美しく解かれていく様子。ただ一方で、そういう本は一気に読んでしまいたいという我が儘もあって、その2冊を読んだ後は、時間がかかっても良いような本ばかりを選んでしまって、伊坂幸太郎先生の作品からは離れていたのですが。

しかしやはり、流石。何だかとてもファンタジーのようでいて、でも何かそうではないような雰囲気もある。物凄くリアルな世界の中にいる気がする。そういう不思議な世界、否、島。

別にそのファンタジーさには解が与えられない。与えられる必要はない。乱暴な例えかも知れませんが、西洋哲学で「存在」というものが前提条件として扱われていたような風に。ハイデガーのような人が現れてそれに疑義を呈するものの、そんなものそれを前提とした人々には関係ない。

近頃よく思い出す言葉があります。どこかで聞いた言葉。完全に暗記したわけではありませんが、「詩は定義するためにある」というような言葉です。詩というのはそれ全てをかけて何かを定義しているのだという話です。「何か」と言うのが何なのか、それは問題ではありません。辞書に「みぎ【右】明という字の月の方」みたいな、そういう丁寧な定義では無くて、それ自体としか言えないものに、それ自体の定義を与えるのが詩、あるいは小説なのではないかと思うことがあります。ひどく抽象的ですが、最近小説を読んでいて、読んだ後、心の中にそれが丸ごとドスンと残っていくような感じがすることが増えました。

今回もそれです。小説のこの部分が心に残った、ここが面白かった、というのではなく、もう全体として心の中に残ってしまう。変な感じです。1冊読んだ、という感じ。読者としての自分が成熟したのかもしれませんし、全然そうではないのかもしれませんが。

文庫の解説にあった通り、ここに何らかの寓意を見出すのは無意味であり、徒労に終わるかもしれません。しかし、優れた文学とは作者を読者に貶めてしまうものですから、作者以上の解釈が出来るかもしれないと、一応寓意を見出してみたいと思います。

「桜」という登場人物が気にかかりました。イントネーションは、女の子の名前の方ではなく、樹木の名前の方。当初は彼が「警察」の寓意を受けた存在かと思いました。警視庁が桜田門あたりに存在することもあって。別に警察は存在するのですが、桜は何らかの尺度を持って悪人を殺すことを認められている存在です。彼が誰かを殺したとしても、それは、津波に人が飲まれて死んだだとか、噴火の被害で死んだだとか、そういう災害と一緒にされる。

しかし或いは、と思うのです。「権力」という寓意を表した存在なのではないか。この島には特定の権力者がいない、緩やかな統治の上に成り立っている島です。統治と呼べるものなんて存在しないかもしれない。しかし普通に生きる私たちは「権力」を受け入れてしまう。「どうして税金を払うの?」だなんて誰も思わない。あって当たり前。火山が100年ぶりに噴火する、地震で家が傾く、国家が徴税する、全部同じ、誰もそこに疑義を呈さない。

彼はとても不思議な存在です。彼がどんな尺度を持って人を殺しているのかはさっぱり見当がつきません。

優午というのも見当がつかない存在。答えが強く示唆されて小説は終わりますが、それが答えであるかは明らかにされない。それでいてモヤモヤした感じはない。さすが伊坂幸太郎先生という感じでもあります。優午という存在が、島の中で溶け込んでしまう、その様子を描くことが、果たして他の作家に出来ただろうか。

優午は謎を残しました。実際には150年ぶりに島にやって来た外の人間は2人ではなかった。4人でした。うち2人は死ぬわけですが、それにしたって4人です。優午はそれを知らなかったわけではないでしょう。2人のうち1人が島に欠けているものを残していくと言うのだから、間違いない、その2人は伊藤と静香でしょう。となると、残りの2人はどういう勘定になるのか。

ただ一方で、優午についてあまり深く考察してしまうのは、この小説をずっとつまらなくしてしまう、という気がします。優午にどの程度深い考えがあったのか。曽根川を殺そうというところには作為があったかもしれませんが、じゃあどうして未来について語らなかったのか、と聞かれれば、きっと「先のことなんて知らない方が楽しい」に尽きるんじゃないでしょうか。別に世界はそこまで理詰めで出来ていない。

城山という人間は、存在それ自体がフラグのような風。伊藤を島に導くのも、静香を島に導くのも、あるいはもっと俯瞰してみて、音楽を島に導くのも、きっかけは城山。もう一つ付け加えると、物語を終わらせるのも城山です。彼についてはほとんど深い描写はない。けれど彼が担った役割は大きい。彼が死んだ、ということに優午の作為があるのだとしたら、とても興味深い。

さて、島に欠けているものがもたらされたところで、果たして島はどう変わるのか、あるいは変わらないのか。

個人的には変わらないんだろうと思います、急速には。優午がいなくなったことで、誰かが島の外に出ようとするかもしれない。しかしもうそれはそれとしか言いようがない。それほど急速には変わらないものです、ゆっくりと、着実に島は変わっていくのかもしれない。豊かな音楽と共に。

 

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02『教団X』(中村文則・集英社文庫)

 

 

教団X (集英社文庫)

教団X (集英社文庫)

 

なんだか近頃売れているらしい、との噂を聞きつけて買いました。元々個人的に宗教というものに興味があり、論文なんかを読んだわけではありませんが、自分なりの宗教論のようなものは体系的に構築されているつもりです。その宗教論を試してみる意味でも、他の人の描く宗教というものに興味があって読んでみました。

読んだ方は分かるに違いありませんが、別にこれは宗教の話ではない──そう言うと誤解を招きそうですから、厳密にいうと、これは「世俗的な宗教を描いたわけではない」ということです。つまり、ある教団があって、その教団の組織を描くとか、そういう話ではない。舞台に宗教が選ばれたのは、実際にはそこを起点にしてもっと深い話をするためであって、別に宗教の組織構造の話をするわけではない。 

 その中で、「人間の本質」のようなものに触れようとする場面がありました。科学と古代宗教が巧みに融合される中で、ブッダ死後の仏教やキリスト死後キリスト教草創期など以後に見られる、極めて恣意的な中に構築された宗教を否定してしまう。否定、というのはもしかすると言葉の選択を誤ったかもしれませんが、少なくとも小説の中で書かれる人間論は、キリスト教などのいわゆる三大宗教のような宗教からは逸脱している。

作中何度か政治的発言が出てきますが、これに関しては何とも言えません。自分のイデオロギーと相いれるものではなかったために良い心地はしませんでしたが、文学は文学であって、政治の主張をするためのものではない。ましてやこれは政治小説ではない。その傍流に着目するのはおかしな話です。作中発言される政治論は、ステレオタイプ的な保守論客が途中発言するのを除いて、ほとんどリベラルで、結局「日本は」みたいな主語を置くことで、何だか作品のスケールが大きいのか小さいのか分からなくなってしまう。これに関しては中村文則先生本人のイデオロギーが大なり小なり反映されたものと判断して良いと思いますが、その浮ついた政治論議が必要であったかと言えば、無かったかもしれません。

ですからやはり、この小説の本質は「人間とは何か」に見出すより他に無いのではないかと思うのです。この小説のストーリーを書き出してみると、案外それが貧弱なものであることに気が付きます。同じ師から2人別れて、それぞれ考え方が違い、片方は朗らかなイメージがあって、もう片方は破滅への道を進む。

個人的に興味を持ったのは、作中Rと言及される宗教です。はっきりと作中に名前が出てくるのですが、そうすると何だか陳腐な感じがしてしまうので、Rの方が個人的にはしっくりくる気がします。

その教義はとても興味深かった。二元論を否定しているというところがそうでした。二元論は相対的なものであるはずなのに、宗教では多くの場合絶対化される。善悪みたいな絶対的な二元論は、分かりやすい反面で陳腐な風もあります。しかしRはこれを否定する。これは興味深かった。

その一方残念だったのは、このRが二元論を否定する一方で、作品は松尾のグループと沢渡のグループが二元論的に対立させられること。本当はそこから離脱してほしかったけれど、松尾のグループは何だか良い人たちばかりで、沢渡のグループの方はあくどいことをやる変態連中、みたいな二元論が出来上がってしまう。教祖の特質によって善悪という二元論に配分されるというところに、ほんの少しだけの不思議さを感じました。

作中興味深い言及はいくつかあるのですが、それはほとんど全て私たちの知らなかったことだと思います。何だか物凄く深い谷底に興味を持ってしまったような、これから何だか凄い秘密を暴いてしまうようなワクワク感がある一方、そのワクワク感は持つだけ無意味だったことにその後気づきます。人間は意識より先に脳が決定している、なるほど。しかしそれでほとんど作中の人物は納得してしまっている。そんなことありますか。もっと素朴に疑問を抱く人物がいたっておかしくない。ワクワク感と言えば、ビッグバンと、それに関連する運命論はワクワクしました。ビッグバンの瞬間、全ての運命は決まったのかもしれないし、決まっていないのかもしれない。人間の主体性の無さに絶望してしまいそうになりますが、とても面白い。

そうした物凄いものを探索しているような風がある一方、それは投げっぱなしにされ、到着したのは教科書的な「良いこと」でした。「偽善」と言っても良いのかもしれない。そこに何か欲望があるとかではなくて、「もうそれでいいじゃない」みたいに諦めたような「良いこと」。これがゴールか、と思うと少し寂しい気もします。

二元論について先ほど少し触れましたが、小説を読むと多くの人は「面白い」「つまらない」という二元論を持ち出し、その尺度の上で価値判断をしてしまいます。自分もその1人です。

しかし今回不思議だったのは、その価値判断が作用しなかったこと。この小説を「面白い」と言うことも「つまらない」と言うことも何だか不適当に思えたのです。もしかするとこの作品最大の魅力はそこにあるのかもしれません。

 

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膨張する国家

国家なるものの特性

国家というものは本来的には膨張したがるものである、と考えなくてはならないでしょう。

太古の時代、日本の歴史教科書では「クニ」と書かれるような小国が群立していた時代があるます。その時国家が膨張したのは、短絡的に富を求めるものであったということになるでしょうが、この場合これを「国家」と呼んで良いものかは疑問です。我々が想像するような国家体が構築されたのはせいぜいここ数百年のことで、それ以前はより短絡的に必要の上で構築された社会的集合体と言うより他にないでしょう。

「国家」が構築されたのはいつ頃でしょうか。古代エジプトにおけるファラオ、古代中国における王──皇帝、日本における天皇、そういったものが君臨し、権力構造が明確化してきたときに「国家」となるのでしょうか。答えは、そうであるかもしれないし、そうではないかもしれない、としか言えません。現在言うところの「国」「家」というのはフランス革命あたりから大きく変質したのかもしれません。

個人的に国家が膨張したがる要因としては、「主権者が意図を政治に意図を反映させられるようになる」というのが前段にあるのだろうと思います。例えば主権者が何らかの君主なのであれば、その君主の意志によって国家は膨張します。君主が国家を膨張したいと直接的に思うこともあるかもしれないでしょうが、わざわざ国家を縮小したいとは思わないはずです。そうした意志を持つ国家があると戦争が起き、国家を膨張させようとしなくても自衛戦争のつもりだったのが戦勝の結果領土を得て膨張する場合も考えられます。

主権者が国民である場合はどうでしょう。ここで大切なのは、主権者が「国民」ということです。これはかなり特殊な意識で、国家体なるものは明確な物理的存在ではないものの、なぜか人々はそこに所属しているという意識を持ちます。この場合、国民が国家を膨張させようとすれば、国家は膨張したがることになるのですが、あまりに「国民」というのは抽象的すぎます。

「国民」は抽象的でしょうが、これは単純に「世論」と置き換えられるとも限らない。と言うのも、まさにその時代は「世論」だったとしても、後から振り返って見ると、それがなんだか狂気めいたものに見られ、それに「世論」なる語を当てることがふさわしくないと思えてしまう場合があるのです。

例えばナチス・ドイツの例ですが、ナチスドイツ国民の世論によって政権を握りました。ところで我々があれを「世論」と呼ぶのには抵抗感があります。おそらくその抵抗感の源というのは、「世論」というものが民主主義を彷彿とさせるので、あの狂気を民主主義と呼んで良いものかという抵抗感に繋がるのだろうと思います。

おそらくこの辺りの定義は政治学的にも及んでいないでしょうから、やはりこれを「世論」と呼ぶより他にないわけですが、主権を国民が有する場合、これはやはり国民が望むと国境が膨張したがるということでしょう。

 

グローバリゼーション

国家とは国境を膨張させたがるものである、とすると、グローバリゼーションを全く違った概念でとらえられます。

国家は膨張したがるものですが、世界は既にそれに挫折しました。第二次世界大戦です。

第二次世界大戦ではドイツもイタリアも国境を膨張せんとしましたし、日本も、それが自衛のためであったとはいえ、影響圏を拡大させようとしていたことは間違いありません。ついでに言うと、ロシアも領土を拡大させようとしたわけです。

この傷は深いものでした。世界中の国々が傷を負いました。これは必ずしも兵器が、あるいは兵士がということではなく、戦争というものに倫理的な自制が求められるようになった。おかしな話ではありますが、戦争の理由に妥当性が求められるようになった。そもそも戦争に倫理なんて持ち込むのがおかしいとは思いますが、世界の流れはそうです。

次に起きた流れは、戦争ではない方法で国境を膨張させようというものでした。戦前にも、第一次世界大戦後に国際連盟なんてものが出来ましたが、これは発達する国際社会の中で必要に応じて組まれたもので、国境膨張に資するようなものではありませんでした。

つまり、国境を膨張させようという意識には影響力を拡大したいというものがあるわけですが、国家間の主権を統合していく中で影響力を他国にも及ばす形で、国境とは一致しない影響圏の膨張を試みたのです。

例はEUです。EUは経済的に日米に台頭するという意味合いもありますが、それが政治的連合に発展した背景にはやはり国境の膨張というものがある。

この辺りから分かるように、グローバリゼーションなるものは、必ずしも国境を失くすという話ではありません。グローバリゼーションは影響圏の話であって、国境の話ではない。

むしろ国境を安易に失くしてしまおうとすると国際体制が揺らぎかねません。

植物の細胞などを例に取れば分かりやすいですが、植物細胞は細胞壁を持っていて、動物のものとは違って固い。野菜を食べた時にシャキッと鳴るのはそういう理由です。国家も同じで、国際社会が保たれるためには、細胞壁が確固としたものでなくてはならない。

 

世界の潮流

では世界のこの潮流にはどういった背景があるのか、ということです。

既に感じておられるかもしれないですが、国境と影響圏が一致しないなどということは、詭弁です。その体制を保つのは難しい。というのは、この影響圏を他国の国境内にも及ぼすということには、その他国の意志と自国の意志が一致しなくてはならないという前提が存在するのです。こんな難しいことはありません。

アメリカが世界の警察を辞めた、というのは簡単な話で、そもそもアメリカは決して他国に影響力を及ぼそうとする国ではありません。せいぜい自分がしっかりしていればいいと考えるような国なのです。それが世界の警察にまでなろうというのの背景には米ソ冷戦がある。その米ソ冷戦の背景には資本主義と共産主義というイデオロギーの対立すらある。これがあってこそアメリカは影響圏を拡大しようとできたはずだし、他国もそれを受け入れた。しかし米ソ冷戦は終わって、米ロ対立なり米中対立なりしたとしても、それは決してイデオロギーによるものではないので、アメリカは元に戻っただけです。これをモンロー主義と言ったりするのでしょうが、そもそもアメリカ人はそういう性向です。彼らは影響圏を拡大しようとしなくたって影響が世界に及ぶことを知っているのです。

イギリスがEU離脱を決めたのは、まさしくイギリスがEU内において持っていた意志と、他国が持っていた意志が一致しないために起きた出来事です。イギリスという国境の明確な国と、その影響圏の不一致が問題になる。経済の話ではEUにいて利益があるかもしれないものの、この政治的な影響圏の矛盾を消化しきれない。

ドイツはEUにおいて盟主と言って良いでしょうが、ドイツは影響圏を膨張させて喜んでいる方の国です。自分の思った通りにできる。別に他国との意志の差異を問題にするまでもないのです。

世界のその潮流は今後も続くでしょう。

国境を膨張させようと戦争し、その後戦争に倫理を求めることで、戦争という手段が用いられづらくなったように、国境とは離脱した影響圏を膨張させる流れも、その矛盾した概念の中で衰退していくのでしょう。

 

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